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 文字通り多くの島を渡り歩いてきたクレインにとって船での仕事は慣れたものだった。操帆作業もロープを縒るのも手慣れたものだ。だが、どれだけ優秀な船員であろうと人間関係だけはどうしようもできない。
 クレインが乗り込んだ商船の職場環境は劣悪だった。
「とろとろと動くんじゃない。さっさと働かんか!」
 船長は威張り散らすしか能のない男だった。平気で船員に暴力を振るうし、気に食わないことがあればすぐに八つ当たりをする。そのうえ金にがめついものだから誰か少しでもヘマをして荷をダメにするようなことがあれば雷のような怒号をまき散らすのだ。誰もがこの船長を毛嫌いしていた。だが船長には船の持ち主である富豪の後ろ盾があるので、下手に逆らうことはできなかった。
(まあどうせ少しの間だけだし)
 船長のことが気に食わないのは雇われ船員のクレインも同じだったが、数日間の仲でしかないと割り切って働くことにした。
 だが、数日ももたなかった。
 船が港を出てから丸一日が過ぎた頃、ざわりと嫌な空気が船上を覆った。
「赤旗が見えるぞ!」
 見張りがそう叫んだ途端、船員たちが凍りつく。
 クレインは目を凝らして海を眺めた。昔からアーツ――それがアーツだとはわかるのだがどういう原理なのかはよくわかっていない――で身体能力を上げることのできるクレインは望遠鏡なしでも遠くの景色を見ることができた。確かに赤旗を掲げた船が見える。骸骨に砂時計。海賊旗ジョリー・ロジャーだろうか。だがバーミア海域で海賊なんて珍しくもなんともない。周りの船員たちが騒ぐ理由がクレインにはわからなかった。
「何でみんな焦ってんのさ」
 クレインは近くにいた熟練船員に尋ねた。日に焼けたいかにも海の男らしい船員は怪訝そうに眉をひそめた。
「赤旗が何を意味するのか知らんのか、新入り。あれは海の疫病神だ」
「疫病神?」
「串刺しドランク。血も涙もない海賊だよ、ありゃ。何しろ、自分を討伐しにきたクルセウス海軍を返り討ちどころか皆殺しにしたんだからな」
「へぇ、そりゃあすごい」
 クレインの感想は実に単調なものだった。海に隣接しているリーレイアもクルセウスも海軍に力を注いでいる。屈強な海軍を退けるということはドランクがそれだけ強力な海賊であることを示していた。
 そんな海賊が自分たちを標的としている。背筋がぞくりと震えた。
 怖いからではない。楽しいのだ。
 海賊船は確実に商船をとらえていた。商船の後ろをぴったりと引っ付いて離れない。振り切るどころかどんどんと距離を縮めていた。船の大きさはさほど変わらないのに相手のほうがスピードが速かった。差は積み荷の量にある。荷を仕入れたばかりの商船は中身がしっかりと詰まっていて、喫水線ぎりぎりまでに船が沈みこんでいた。一方、獲物に飢えた海賊船は腹の中がからっぽだ。
「積み荷が重すぎるんだ。海に捨てよう」
「ダメだダメだ! 勝手に荷を捨てたと知られればワシがご主人様に叱られるではないか!」
 船長が怒鳴る。
「絶対に荷物を捨てるんじゃないぞ! それ以外の方法でもっとスピードを出すんだ!」
(無茶言うなよ)
 クレインは心の中でぼやいた。風は追い風、帆も全開だ。あとは荷を捨てるしかないというのにそれは駄目だと船長が言う。もはや手のうちようがなかった。あとは喰らわれるのを待つばかりだ。
 鉤爪のついたロープが投げ込まれた。いよいよ海賊たちが乗り込んでくる。船員たちはロープを切り落とそうとするが、その間にも海賊たちが向こうの船から、海から、一挙に押し寄せてくる。抵抗する者には容赦がなかった。抵抗し殺された者たちの血で甲板が赤く染まっていく。みるみるうちに被害は拡大していった。
 そもそも最初の対応が悪すぎたのだ。逃げるには逃げ切れず、応戦の指示もろくに与えられていない。掲げられた赤い海賊旗ジョリー・ロジャーの恐怖に船員たちは混乱するばかりだった。
「今のうちに逃げれば」
 そうぽつりと呟いたのは一体誰だったのか。見れば青い顔をした船長が依然として傲慢な態度でクレインを見上げていた。
「おい、おまえ」
「俺?」
「そう、おまえだ。おまえはワシの護衛として雇ったんだ。ついてこい!」
 どこに、とは訊かなくてもわかった。この狭い船上、今の状況で向かう場所といえばたったひとつ。
 船長は逃げる気なのだ。与えられた船も、船員たちも、みんな放り出して。
「いや、俺、商船の護衛しか聞いてないんすけど」
「ワシは船長だぞ! ワシの命令に逆らうというのか!」
(クソみてぇ)
 今までいろんな船に乗ってきた。いろんな人を見てきた。だが、ここまで胸糞悪いと思ったのは今回が初めてだ。自分の好き勝手に振る舞い、自分の都合でしか動かないこの男をクレインは心の底から軽蔑した。そして何よりも、高揚した気分をぶち壊しにされたことに心底腹が立った。
 目の前に強そうな相手がいるというのに、尻尾を巻いて逃げるだけとは。
 なんとつまらないんだろうか!

 バン!

 銃声が高々と鳴り響く。この喧騒の中、銃声など何も珍しくないというのに船の上にいた全員が、敵味方問わず全ての人間が聞き届けた。
 銃声は商船の船長を撃ったものだった。
 撃ったのは海賊ではない。船長に護衛として雇われた男だった。
「あ、あっ……!」
 味方に撃たれるなんて誰が予想できただろうか。足からどくどくと流れていく血に、ずきずきとした痛みに、視覚、痛覚ともに船長は混乱していた。目の前には冷めた目で自分を見下ろす男――クレイン。その手には未だ硝煙が立ち上る短銃を手にしていた。
「ひっ、ぎ、きさまっ! なんっ、の、つもりだぁ!?」
 悲鳴にも似た裏返った声で船長は叫んだ。相変わらず傲慢な態度ではあったが、その目には怯えが見えていた。表情も声も引きつっている。
「戦わずして逃げるなんてくそつまんねーじゃん」
 クレインは船長の首根っこを掴むとそのままずるずると引きずっていった。ひぃと裏返った悲鳴があがる。足から出血しているのもお構いなしだ。甲板に血の道筋が作られていくその異様な光景を、商船の船員も敵の海賊もただ呆然と見守ることしかできなかった。
 クレインが目指す先はただひとつ。
 この争乱の最中、仁王立ちでどっしりと構えた人物がに迷わず向かっていく。
 敵の海賊船の親玉――海賊ドランクだ。
 クレインにとってドランクの姿を見るのはこれが初めてだった。だが彼がドランクであることはすぐにわかった。気迫が、その身を纏うオーラが他の海賊たちと比べて全く違うのだ。目の前に立つだけで体が震えそうになる。これは武者ぶるいだ。
 ドランクは船長を引きずってきたクレインをぎろりと睨んだ。
「何の真似だ、坊主。手土産のつもりか?」
 命乞いのために自分の指揮官の命を差し出すことは戦場においては何ら珍しいことではない。クレインが船長を撃ったのは命乞いのためだと、ドランクはそう思った。
「そう、手土産。だからさ……」
 だが、その考えが間違いだと思い知らされるのはすぐだった。
「俺と戦ってよ。あんたが一番強いんだろ?」
 クレインがにやりと笑う。その目は血に飢えた獣のものだった。そこに正義感なんてものは存在しない。ただ単純に、自分の欲を満たすためだけの闘争心。
「己の欲求を満たすためだけに味方を売るなんざぁ、とんでもねぇロクデナシだな、おめぇは」
「…………」
「面白い!」
 それまで微動だにしなかったドランクが腕組みを解く。と同時に、腰から抜いたカトラスで目の前に転がっていたものを突き刺した。たった一刺し。ドランクの持っていたカトラスは船長の心臓を的確に貫いていた。それまで這いつくばり息絶え絶えに生きながらえていた船長は一撃で絶命した。
「確かに土産は受け取った。後悔しても知らんぞ」
「後悔するようなことだったら最初からやらないよ」
「ゲハハ、そりゃあそうだな」
 ドランクがかかって来いと指を立てる。見くびられている。余裕綽々のドランクにムッとしたが、今に見てろよと言わんばかりにクレインは大きく跳躍した。辺りがざわつく。クレインのジャンプ力があまりにも人間離れしたものだったからだ。アーツによる身体強化だ。
 クレインは空中で狙いを定めると、そのままドランク向かってカトラスを振り下ろした。対するドランクもカトラスでクレインの攻撃を受け止める。落下する重力とアーツで強化した筋力によるクレインの攻撃は強力だったはずだ。だが、ドランクは片手で軽々と受け止めていた。
 そして、
「まずは一撃」
 ドランクは空いた方の手をぎゅっと握りしめると拳をクレインの腹に思いきり叩き込んだ。内臓がひっくり返りそうになるほど重い一撃だった。その場にうずくまりそうになるのをクレインは何とか必死にこらえた。
 ドランクは見た目からしても高齢なはずだ。だがその腕に衰えはない。まくり上げた腕から見える筋肉は隆々としており、普段からも鍛え上げていることがわかる。
 これがこの海で最も恐れられている海賊。
「それで終わりか?」
「終わりなわけねーだろ、くそが」
 クレインは口の中に溜まっていた血をぺっと吐き出した。見くびっていたのは自分のほうかもしれない。クレインの顔からはすっかりと余裕が消え去っていた。だが怯えは見当たらない。強敵を目の前にしてますます高揚感が募るばかりだ。
 クレインは大きく深呼吸をすると、再びドランクに向かって攻撃を繰り出した。大振りのカトラスで素早く攻撃を繰り返す猛攻だ。いくらアーツで筋力を強化しているとはいえ、無茶な動きだった。筋肉が悲鳴をあげているのがわかる。それでも目の前にいる強力な敵をぶちのめしてみたい。その興味がクレインを突き動かしていた。
「動きは悪くない。だが単調な動きだ」
 ドランクはクレインの動きを全て見切っていた。常人ではないクレインの動きについていくことができるのだ。もはや化け物かもしれない。
 このまま正攻法でいったとしても埒が明かないと判断したクレインは身を屈め、足払いをかけようとした。だが、先に反応したのはドランクのほうだった。
「え……?」
 ぐるん、と世界が回った。
 次の瞬間、
 ガン!
 投げ飛ばされたのだとわかったのは甲板に仰向けになった後だった。背中に激痛が走る。起き上がろうにもクレインは起き上がることができなかった。
 何故なら、目の前にカトラスを突き付けられていたから。
(あ、死んだな)
 死の直前だというのに、恐怖は一切湧いてこなかった。むしろ心に残るのは満足感だ。最期にこんな強敵と戦えたことが楽しかった。でも、できることなら勝って死にたかったな、と。
「おい、いつまで寝てやがる」
 頭上から降ってきた声にクレインはばっと跳ね起きた。いつの間にかカトラスがなくなっている。見ればドランクはカトラスを腰へと戻していた。
「殺さないの?」
「そんな満足そうなツラして死ぬのを待ってるような奴なんざぁ、殺す価値もなんもねぇ。それよりかは生かしていたほうが何倍も価値がある」
 ドランクはにかっと笑った。さっきの勝負からは全く想像ができないほど清々しい笑い方だった。
「まさかこの俺様に勝負を挑んでくるような奴がいるたぁな! ゲハハ! おめぇ、なかなか気概があるじゃあねぇか。どうだ、うちの子にならねぇか?」
「あ? 何言ってんだよ、おっさん」
「俺について来いって言ってるんだ。そんな獰猛な獣を内に飼って、今まで生きづらかっただろう。俺の下ならどれだけ暴れたって構いやしねぇ。何せ俺たちゃ海賊だからな」
 誰かに、それも初めて会った人物に自分のことを見抜かれるのはこれが初めてだった。
 『生きづらい』――その言葉がクレインの心を貫いた。
 ロクデナシの父親の遺伝か、どこに行っても自分の中にある凶暴性がついて回る。物を盗み、女に乱暴を働き、挙句の果てには雇い主も殺してしまった。どこに行っても厄介者扱いされるロクデナシ。
 ――普通の人として生きるのはもう限界なのかもしれない。
 未練は何もなかった。ふらふらと浮浪していたのがどこかに身を寄せるようになるだけの話だ。
 いや、今よりもずっと楽しいかもしれない。
「いいよ。面白いんだったらどこでもついていくよ」
 この頃、クレイン十八歳。
 何の迷いもなしにクレインは海賊になった。
 力が全ての海賊社会において、クレインはめきめきと頭角を現していった。どれだけ暴れても構いやしない。ドランクの言った通りだ。金も酒も女も望めば手に入る。クレインにとって海賊稼業はまさに天職だった。
 ドランクの下で海賊をやっているのは実に楽しかった。楽しく生きられればそれでいいと思っていた。


 ――あの生意気な船長に出会うまでは。






1.ロクデナシの息子  [2014年 11月 11日] 初稿

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