[2015年 1月 11日] 初稿
毒で体力が落ちてしまっている今、逃げることこそが最良の策なのだろう。だが、背を向ければ間違いなくやられる。無防備な背中を見せれば容赦なく噛みついてくるだろう。 相手もまた、ギルダーと同じ戦術の持ち主なのだから。 「まだ生きていたとはな」 「テメェは、やっぱり……!」 闖入者は黒いフードで全身をすっぽりと覆い、口元も隠していたので目しか見えなかった。 だが、間違いない。 奴こそがルドルフを殺した張本人だ。 飛び散る血。倒れる伯父。 射抜いたのは自分の短剣だった。 『おじさ……っ!』 手を伸ばしてももう遅い。 はっと気がついた時には体を逸らし、ナイフの標的を変えるので精一杯だった。右腕にナイフが突き刺さる。 ギルダーが見据えた先には。 真っ赤な、血に飢えた獣の瞳があった。 「よくも、伯父さんを……!」 あの時は逃げることしかできなかった。相手の技量のほうが上だととっさに判断したからだ。だが、今は怒りのほうが勝っていた。 相手が強かろうが、自分が弱っていようが、奴を殺したいと本能が叫んでいる。 「実に良い目だ……ギルダー」 ギルダーは短剣を手に、敵に斬りかかった。毒に侵されているとは思えないほど俊敏な動きだ。 だが、相手とて負けていない。……いや、相手のほうが上手だった。ギルダーが弱っているからではなく、もとより相手の実力のほうが上なのだ。ギルダーの攻撃の手を冷静に見極め、的確に攻撃を弾く。ギルダーが押されているのは第三者であるカティアでも十分にわかった。 自分も加勢しなければ。そうは思うものの、カティアは二人の動きを目で追うのが精一杯だ。 と、その時。一本のナイフがカティア目がけて飛んできた。 偶然ではない。男が意図してカティアを狙ったのだ。自分を狙うナイフにカティアは恐怖で体が強張った。 だが、ナイフがカティアに当たることはなかった。寸前のところでギルダーが受け止めたのだ。右腕を犠牲にして。 「船長!」 ギルダーは右腕に刺さったナイフを一気に引き抜いて投げ捨てた。顔が激痛に引きつっている。 「女は関係ねえだろ!」 「無関係ではない。姿を見られたからには消さねばならぬ。我々暗殺者の道理をおまえが知らないわけでもないだろう」 「……ッ!」 わかっていた。敵が暗殺者であることも、暗殺者が任務を完遂するまで追撃をやめないことも、全て。 「おまえは昔から甘かった。女子供となると殊更にな。その甘さは命取りだ――今も、また」 「……!?」 がくりとギルダーの膝が折れる。体が震え、冷や汗が止まらない。毒が回ったのか。 いや、違う。さっきのナイフにも毒が塗ってあったのだ。 「兵士が来れば困るのはこちらも同じだからな。早めに片をつけさせてもらうぞ」 屋敷で使われた毒はわざと逃がすために遅効性の物を使っていた。だが今度の物は即効性だ。 本気でギルダーを殺しにかかっている。 「さらばだ。ギルダー」 男は動けないギルダーにナイフを向けた。 と、その時だった。 突然、男のフードが燃え上がったのだ。炎が男に襲い掛かる。いったい何が起こったのか、男は驚いたものの冷静にフードを脱ぎ捨てようとした。 だが、その隙をギルダーが見逃さなかった。残されたわずかな力を振り絞って、男に掴みかかる。男を押し倒し、馬乗りになったギルダーは短剣を構えた。 男の心臓目がけて。 「ギルダー!」 遠くにユーリの姿が見える。 目が、自分とよく似た瞳が駄目だと訴えていた。 大伯父を殺した仇だというのに、自分たちを窮地に追いやった敵だというのに、それでもユーリは殺しを認めなかった。 いや、本当はわかっていた。 父親に本当の人殺しになってほしくないのだと。 ギルダーは短剣を投げ捨て、男の前髪を掴んで地面へと思いきり叩きつけた。男は呻き声ひとつあげ、ぴくりとも動かなくなってしまった。 息がある。 自分は殺していない。 はあはあと荒い呼吸を繰り返すギルダーのもとに、ユーリたちが駆け寄ってきた。 「ギルダー、大丈夫!?」 「大丈夫だ、死んでねえ。俺も、こいつもな」 「まったく、おまえが殺してしまわないかと内心ひやひやしたよ。この男に口を割らせないと無実を証明するのが難しくなるからね」 「俺だって、大人になったんだ。昔とはちが…う……」 突如、ギルダーの体がぐらりと揺らぐ。 「ギルダー!」 毒がかなり回ってしまっているのだ。シノは薬を用意し、ギルダーを抱え起こした。 「解毒剤だ。飲め、飲むんだ」 口元まで薬を持っていくが、ギルダーの口は動かない。毒のせいで口を動かすこともままならないのだろう。ギルダーが自力で飲めないとわかると、シノは口の中に直接指を突っ込んだ。シノのあまりにも強引な手にユーリとカティアは思わず目を丸くした。 「ユーリを置いて逝くなんて許さないからな!」 薬を喉へと押し込む。ごくりとギルダーの喉が弱々しくも嚥下したのを見届けたシノは、ギルダーの髪を掻き撫でた。 「よく頑張ったね。しばらく眠ってていいよ」 そう言われて安心しきったのか、ギルダーの目がとろりと微睡む。決して安らかな寝顔とは言えないが、ちゃんと胸が上下しているのを見てユーリはほっと胸を撫で下ろした。 「これで大丈夫?」 「いや、まだだ。今のは一時的な処置にすぎない。どんな毒が使われたのかを調べて、適切な処置をしなきゃ。どこか安全で、ギルダーを横にできる場所を探さないと」 傷の処置を終えたシノは意識のないギルダーを背負った。 「ひとつ、心当たりがあるんだ。ユーリ、付き合ってくれないか?」 シノはユーリの目を真っ直ぐに見つめながら言った。
[2015年 1月 11日] 初稿