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 八年前――


 四年目の夏が訪れた。
 海軍兵学校で過ごす最後の夏。卒業試験はもう間近に迫っていた。
 シュヴァルツたちが通うクランベイル海軍兵学校では四年目の夏に卒業を兼ねた試験をおこなう。筆記、実技、面談をおこない、及第点を得た者は晴れて卒業となる。
 試験こそ難しいものの、見事合格すれば彼らは海軍に入隊することができる。つまり、将来が確約されているというわけだ。そもそも、海軍兵学校に入学する者は海兵になることを希望しているわけであり、卒業試験に力を入れないわけがなかった。
 夏の太陽が容赦なく照りつけるこの季節は誰もが良い結果を残すべく試験勉強に取り組んでいた。海兵になることを夢見て。
 だが、ただ一人だけ。
 四年目になっても未だに進路に悩む者がいた。




「シュヴァルツ!」
 切羽詰まったような、されどどこか怒気を含んだ声に、呼ばれた張本人は思わず肩をすくめた。少し意外だったのだ。この時間帯、クソがつくほど真面目な義理の兄は必死に試験勉強に取り組んでいるのだと思っていたのだから。
 シュヴァルツはお気に入りのベンチから体を起こすと、兄に向かって暢気に手を振った。
「やぁ、ルドルフ。どうしたんだ、おまえらしくもない。勉強のしすぎで頭が煮詰まって気晴らしの散歩にでも来たのかい?」
「おまえと一緒にするな。それよりどういうことだ。教官から聞いたぞ。まだ受験票を取りに行っていないって」
「ああ、それなら今日の午後から取りに行こうと思っていたんだ」
「今日の午後って……締め切りギリギリではないか。さっさと取りに行けばいいものを」
「後で取りに行ったとしても同じだろう?」
 シュヴァルツの言い種にルドルフは思わず閉口した。ああ言えばこう言う。義理の弟にいくら言っても無駄だということはずっと昔からわかっていた。シュヴァルツはこういう気性の持ち主なのだ。自分とは違って。
 シュヴァルツとルドルフは全く血の繋がっていない兄弟だ。歳は同じ。ルドルフのほうが生まれ月が早いので兄ということになっているが、兄と弟の境界などあってないようなものであった。シュヴァルツの父レインがカルスト家にシュヴァルツを養子入りさせたことがはじまりだ。
 三歳の頃からずっと兄弟なのだから今さら他人だとは思わない。されど、今のようにあまりにも自分と異なる考え方を見せつけられては、別の存在なのだと認識せざるをえない。
 今だって、卒業試験は二日後だというのにシュヴァルツは悠々と怠けている。だがきっとこの器用な弟は試験で良い結果を残すにちがいない。そう思うとなんだか憎らしくも思えた。
「……セレスも心配していた」
「セレスが?」
 さっきまでだらしなく座っていたシュヴァルツが“彼女”の名前を聞いた途端、ぴんと背筋をのばした。器用に見えていても、実のところは単純だ。ルドルフは喉の奥でくつくつと笑った。
「さっき表通りで会ったんだ。ついさっきだからまだ近くにはいると思うが」
「表通りだな。わかった。ありがとな」
 シュヴァルツの行動は実に素早いものだった。先ほどまでの重い腰が嘘のようだ。
 足早に去っていくシュヴァルツの背を目で追うルドルフの口からため息がもれる。
「見かけによらず神経質なんだから、あいつは。あんなに悩まなくてもいいのに」
 締め切りギリギリまで受験票を取りに行かなかった理由。ルドルフはなんとなくだが予想がついていた。
 シュヴァルツは卒業したくないのだ。
 今の学生生活が楽しいからという訳ではない。シュヴァルツは海軍に入隊することを躊躇っている。海軍兵学校を卒業してしまえば、そのまま真っ直ぐに海軍入りだ。だから卒業試験に臨むことに踏ん切りがつかない。
 その原因は彼の生い立ちにある。
 シュヴァルツの父親、レイン。その正体は女王陛下の私掠船アルタリス号の船長だ。言ってしまえば海賊。海軍に敵対する存在だ。
 もっとも、今は女王の庇護の下で敵国クルセウスから掠奪をおこなっているだけなので味方ではあるが、もしも女王の命に背くようなことがあれば、あるいは条約に違反するようなことがあれば、もっと酷なことを言うならば、女王がアルタリスを切り捨ててしまえば。一瞬にして味方が敵へと変わる可能性をはらんでいる。もしもアルタリスが敵だと見なされれば取り締まるのは海軍――シュヴァルツは父親と敵対する可能性があるのだ。
 当然ながらそのことは海軍兵学校に入学する前からわかっていたはずだ。今になって悩むのは今更と言えるだろう。わかっていながらシュヴァルツは海軍兵学校に入学することを選んだ。
(でも、それは父上に遠慮してのことなんだろうな)
 カルスト家は古くから続く騎士の家系だ。ルドルフの父は海軍出身。そのまた父も海軍で名を馳せた将校だった。カルスト家の男児は代々女王の騎士として島国リーレイアを外敵から守るべく、海兵を目指すのが習わしだった。
 ルドルフは当然のように海軍兵学校に入学することを決めた。だがシュヴァルツは――養子であるシュヴァルツも選択を迫られた。海軍兵学校に入るか否か。ルドルフと違い選択権があったのはシュヴァルツに対する一応の配慮だったのだろう。だが、選択肢はあってないようなものだった。
 シュヴァルツは躊躇なく入学を選んだ。それが十数年もの間、血の繋がりのない自分を育ててくれたことへの恩返しなのだから。シュヴァルツの入学を義父は大層喜んだ。義父にとって、シュヴァルツは実の息子同然だったのだから。
 それが今になって悩みの種となってしまった。
(あいつは昔から優柔不断だからな)
 なまじ頭が良いせいか、シュヴァルツは物事を深く考えすぎる癖がある。表面上は暢気であっけらかんとしているように見えるが、実はうじうじと悩みがちであることを、長年兄弟をやっているルドルフにはわかっていた。
 シュヴァルツは物事を最良へと持っていこうとする。それが悩み癖へと繋がっているのだ。誰かが上手くガス抜きをしないと一生悩み続けることだろう。
 彼女なら――
 付き合いは浅いが、彼女はシュヴァルツのことをよく見ている。悔しいぐらいに。
 結局のところ、ルドルフは彼女にすべてを任せるしかなかった。



 シュヴァルツは港へと急いでいた。
 教えられた表通りでなく港へと向かったのはセレスの行動を予測してのことだ。試験間近のこの忙しい時期に、優等生であるセレスがわざわざ表通りに行く理由がない。あるとすればシュヴァルツを探していたからだ。セレスはシュヴァルツに会うために彼が行きそうな場所を巡っている。次に行くとするならば、表通りに近く、シュヴァルツのサボりポイントのひとつでもある港だ。
 港に近い自然公園に、果たして彼女の姿があった。
 長く伸びた艶やかな黒髪。間違いなく彼女だ。
「やぁ、セレス……」
 弾む息を整えてから、シュヴァルツは平然を装ってセレスへと声をかけた。焦って彼女を探していた、なんて知られたら格好がつかない。ちょっとした男の矜持だ。
 だが、彼女にそれは通用しない。
「受験票」
「……は?」
「ちゃんと貰ってきたんでしょうね。先にルドルフに会ったんでしょう?」
「はは……」
 シュヴァルツの口から乾いた笑い声がもれる。全部お見通しだ。
「受験票は午後から取りに行くつもりだよ。それよりも君が僕のことを気にかけているってルドルフから聞いたものだから、先に君に会っておかなくちゃと思ってね」
「あら。私、心配なんてこれっぽっちもしていないわよ。あなたはやる時にはやる人なんだから」
 セレスの率直な言葉に、シュヴァルツは目をぱちくりと瞬かせた。
(ああ、彼女はどうしてこうもズルい人なんだろうか)
 セレスは聡い女性だ。伯爵家の令嬢としては致命的すぎるほどに。
 男は、特に政治に関わることの多い貴族は聡明な女性を嫌う。自分がやっていることに口を出されたくないのだ。だからッ自分の話をただ黙って聞いて、理解することなく適当に相槌を打ってくれる女性を好む。
 だがシュヴァルツの場合は違った。シュヴァルツはあまりにも多く物事を考えすぎる。膨大な思考の海から自分のことを理解し引き揚げてくれる人――自分の考えに真っ向から意見してくれるセレスのことが、シュヴァルツは好きだった。
 それはいつしか友人としての枠組みを越えるほどに。
 シュヴァルツはセレスの隣に腰を下ろした。
「やっぱり僕は迷っているんだと思う」
 唐突に話しかけてもセレスは「何が?」とも「どうしたの?」とも問いかけてこない。理解したうえで全部聞いてくれる。それがシュヴァルツにとってすごく楽だった。
「自分がどうしたいのかよくわからないんだ。海兵になることは僕の夢ではない。だけど、海兵にならないこともまた夢ではないんだ。ねぇ、セレスはどうして海軍兵学校に入学しようと思ったんだい?」
「私ね、ひらひらしたドレスが嫌いなの」
「……は?」
「男の人にはわからないでしょうけど、コルセットって腰をぎゅーっと締め付けてすごく窮屈なの。それに高いヒールだって、ずっと履いていたら足が痛くなっちゃう。貴族の女はね、あんな堅苦しいものを着た状態で男に媚びなきゃいけないのよ。特に意見を述べるわけでもなく、ずっとニコニコ笑っているだけ。自分が馬鹿になっちゃうみたい」
「は、はぁ……」
「お人形のように一生を過ごすなんて絶対イヤ。だから海兵を目指そうと思ったの」
 もはや開いた口が塞がらない。次の瞬間にはシュヴァルツは大声をあげて笑っていた。
「何よ。そんなにおかしい?」
「いやぁ、セレスらしいなと思って。うだうだ悩んでいた自分が馬鹿みたいだ」
「そうね。あなたは馬鹿よ。頭の良い馬鹿だわ」
「はっきり言ってくれるなぁ」
 ひとしきり笑い終えたシュヴァルツは重い腰をあげた。
「受験票、取りに行ってくるよ。とりあえず、 、 、 、 、海兵になろうと思う。理由は……そうだなぁ、海兵以外に目指すものがないから、かな?」
「それ、面談で言ったら怒られるわよ」
「わかってる。もっとマシな言いわけをこの三日で考えとくよ」
 さっきまでもやもやとしていた気持ちが嘘のようだ。……いや、全てが解決したかといえば実のところはそうでもない。やはり迷いはまだ残っている。
 だが、その時はその時だ。
 恐れていることに直面した時に考えればいい。今考えたところで自分の性格上、ずっと悩むのは目に見えているのだから。

 だが、問題へと直面する時はすぐに訪れた。






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