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準備は万全だった。
ユーリはひとつ呼吸を置くと、己の装備を改めて確認した。右手にはおたま、左手にはフライパン。自分専用の武器だ。
ユーリは大きく息を吸うと、
「起きろー!」
ガンガンガン!
ユーリは持っていたおたまでフライパンを思いきり叩いた。けたたましい音が鳴り響く。
ガンガンガン!
「うるせぇ!」
やかましいほどの騒音に、安眠を妨害されたギルダーはがばりと跳ね起きた。と同時に枕をユーリに向かって投げつける。寝起きとは思えないほど俊敏な動きだった。
だがユーリとて慣れている。飛んできた枕をフライパンで叩き落とす。
ギルダーはぎろりとユーリを睨みつけた。
「毎回毎回耳元で馬鹿でけえ騒音を鳴らしやがって! 俺の鼓膜を潰す気か!」
寝起きのギルダーは最悪なまでに機嫌が悪い。それがアルタリスの常識だ。ギルダーはいつもの三割増し眉間に皺を寄せて怒鳴った。
だがユーリも負けじと怒鳴り返す。
「だったら一回で起きろっつの! さっさと起きねーと飯抜きだからな!」
捨て台詞のように告げると、ユーリはさっさと部屋から出て行った。まるで一仕事を終えたと言わんばかりに。三十人近くいる船員たちの食事の支度をしなければならないのだ。こんなところで割いている時間などなかった。
ばたんと乱暴に扉が閉められる。出て行くユーリを見送ったギルダーは、シーツに顔をうずめた。
「あいつ、いつからあんなに口達者になったんだ?」
× × ×
ユーリがアルタリスに正式加入してから二週間が過ぎた。
「すっかり立場が逆転しちゃったね」
シノは食後のお茶を楽しみながら二人のことを他人事のように評価した。
ユーリがアルタリスに誘拐されてきた当初はギルダーがユーリを起こしに行っていた。寝覚めの悪いギルダーが何故わざわざそんなことをしたのか、本人は語ろうとはしないが、ユーリのためにやったのではないかとシノは踏んでいた。ユーリは自分の仕事をきちんとこなす奴だと他の船員たちに知らしめるためだ。その思惑通り、ユーリはすんなりとアルタリスに馴染むことができた。ユーリが正式な船員となった今、その必要がなくなったからギルダーは朝の習慣をやめた。
だが、今度はユーリがギルダーを起こしに行くようになった。
何故そんなことをするのかとユーリに尋ねてみたところ、
「ご飯ってみんなで食べたほうが美味しいだろ?」
みんなでわいわいと楽しみながら食事をする。それがユーリの理想らしい。
「それに、一人分だけ後で作りなおすのって面倒だし。一緒に片付けちゃったほうが楽なんだよな」
「そりゃそうだよね。でも、あのギルダーを起こしに行くのってかなり勇気がいると思うんだけど」
「大丈夫じゃね? 何でか知んねぇけど、ユーリんはギルにめっちゃ気に入られてるみたいだし。ユーリん、ケツぐらい自分でしっかりとガードしとけよ」
「ケツ? ガード? どういう意味?」
すぱん、と小気味の良い音がした。シノがクレインの頭を無言で叩いたのだ。
「いてっ!」
「子どもに変なことを教えない」
「だからって頭叩かなくったっていいじゃん!」
耳元で抗議するクレインをシノはさらりと無視した。
(でもクレインの言うとおり、ギルダーのユーリへ対する執着っぷりって尋常じゃないんだよなぁ……)
思えば最初の誘拐の時点で妙だった。私掠船として掠奪行為を生業としているアルタリスだが、今まで人身売買に携わったことは一度もなかった。
海賊が掠奪するものは金銀財宝の積荷だけではない。その中に人が含まれていることだってある。奴隷は高値で取引されるので、海賊たちは獲物の船から船員たちを攫い、奴隷とすることがしばしばあった。
しかしアルタリスは人を掠奪しようとはしない。船員たちの気質のせいか、アルタリスは人の道に背くような行為を良しとはしなかった。何よりも船長であるギルダーが人身売買を嫌っている。船長が認可していないのに船員が進んでするわけにはいかなかった。そのギルダーが子どもを誘拐してきたので変だと思ったのは確かだ。
だが、ギルダーは身代金を要求するどころかユーリを逃がそうとはしなかった。かと思えばオレンヌの時はあっさりと手放そうとした。捕えて離さない、というよりは大事にしているように見える。
それにあの時――
「しっかしありゃ、不機嫌オーラむんむんだな。よっぽどのバカじゃなきゃ近寄りたくないぜ」
クレインが顎で示した先には一人席について粥を啜るギルダーの姿があった。後ろ姿だけでもギルダーの不機嫌さがはっきりと伝わってきた。
朝に弱いギルダーは朝食を抜くことがほとんどだった。が、ユーリがそれを許さなかった。「朝食は一日の活力になるんだから食べろ!」と怒鳴りつけたうえ、消化に良い食事まで作る始末だ。いくら横暴なギルダーとはいえ、ここまでされては断りづらかったらしい。ついにはギルダーが折れた。おとなしく席について朝食を食べるようになったが、それでも機嫌の悪さは隠せていない。話しかければどんなとばっちりを食らうことやら、誰も進んでギルダーに近寄ろうとはしなかった。
そんな中でただ一人。
「せんちょーせんちょー!」
「あ、バカがいた」
クレインに『バカ』とまで言わしめたのはハミンだった。
ハミンはアルタリスでも数少ない女性の一人だ。青みがかった短い黒髪に、小動物を彷彿とさせるくりくりと大きな茶の瞳。ひらひらとした可愛らしい服よりも動きやすいボーイッシュな服を好んでいたので、一見すると男の子に見えなくもなかった。幼い顔立ちだが今年で二十歳になるので、十四のユーリからしてみれば大人のお姉さんだ。
ハミンは背後から駆け寄るなり、ギルダーに飛びつこうとした。が、あっさりとかわされる。誤ってテーブルに飛び込んでしまい、ハミンはぎゃんと悲鳴をあげた。
「ちょっとせんちょー! 何で避けるのよー!?」
「うるせえ。いいからとっとと要件を述べやがれ」
ハミンの突撃を避けたギルダーの手にはちゃっかりと粥の皿があった。呑気に粥を啜っている。案外気に入っているのかもしれない。
ハミンは椅子に座りなおして言った。
「せんちょー、報告。いつもみたいに浜辺を物色していたら変な箱を見つけたの」
「箱?」
「そう、箱」