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 水面のように透き通った青空が眩しく感じる。季節は秋。頬を撫でる風は段々と冷たさを増していた。
 アルタリスのアジトでユーリはぼんやりと空を眺めていた。頭上には幼竜のクロもいる。生まれてからわずか三ヶ月だが体つきは着実に竜へと近づいていた。翼にはしっかりと膜が張られており、僅かながら飛行もできる。ここまで育ってこれたのはユーリが世話したおかげだと言っても過言ではない。もっともユーリとしてはそれを鼻にかけるつもりはないのだが。
 心地よい秋風に、突如びゅうと突風が混ざった。
 頭上を通り過ぎる黒い影。ユーリはハッと空を見上げた。
「……来た!」
 これはチャンスだった。ユーリは決して逃がさないようにと、頭にクロを乗せたまま急いで影を追いかけた。
「お、ユーリん。そんなに急いでどーしたの? 朝飯は?」
 ユーリを見かけたクレインがつい声をかけた。クレインの隣にはカティアもいる。急いではいるものの仲間を無視するわけにはいかないと、ユーリは駆け足しながらも律儀に応対した。
「ごめん、今それどころじゃないんだ」
「え〜。朝飯ぃ……」
「支度は済んでるからそれ食べといて。カティア、みんなに配膳よろしく」
「うん、わかった」
 言いたいことだけ言い終えると、ユーリは急いで走り去ってしまった。クレインとカティアは事情が飲めないまま、ユーリの背中を見送ることしかできなかった。
「ユーリ、どうしたのかな?」
「さぁ?」
 不思議そうに見送る二人のもとに、今度は慌ただしくシノがやってきた。いつもは冷静沈着なシノだが、今はどこか急いでいるようにも見える。
「ユーリを見なかった?」
「ユーリんならどっかに走って行っちゃったけど」
「何かを追いかけているみたいだったわ」
「追いかけてる? ……ああ、そうか。そろそろ来る時期だったものね。それじゃあ後でもいいか。どうせしばらくは起きてこられらないだろうし」
「来る時期? 何が?」
「クロトビチョウだよ」
「ああ、そーいうことか」
 納得するクレインとは裏腹に、話の事情が読めないカティアは首を傾げるばかりだった。未だにわかっていないカティアにシノが解説した。
「クロのお母さんだよ。そろそろ産卵のために山頂の巣に戻って来るだろうってユーリに教えたんだ」
「クロの、お母さん……」
 カティアはずっと気になっていた。何故竜の子がユーリのもとにいるのだろうと。大きめの猫ぐらいのサイズしかないクロはどう見ても幼竜だ。まだ親元を離れる時期ではない。それなのに何故人間のもとで暮らしているのか。
「クロはもともと食用に取ってきた卵だったんだけど、ユーリがそれを孵化させたんだ。ユーリはクロを親と引き離してしまったことを後悔している。ユーリはね、クロを親元に帰すつもりなんだよ」


 秋から冬にかけてがクロトビチョウの産卵時期だった。クロトビチョウは実に奇妙な習性を持つ竜である。交尾や子育ては気候の温暖な南方の大陸でおこなうのだが、産卵と孵化だけは自分が生まれた巣でおこなうのだ。シノからクロトビチョウの習性の話を聞いたユーリは毎朝外に出てクロトビチョウが帰ってくるのを待っていた。クロの母親が戻ってくるのを。
 そしてついにその時がきた。
 ユーリはクロを連れて山頂の巣まで来ていた。果たしてそこにクロトビチョウの姿があった。黒い岩のように硬そうな鱗、雄大な体。そして頭には引っ掻き傷のようなものがあった。倒木がぶつかった痕――間違いない、三ヶ月前にユーリが会ったクロトビチョウだ。
「クロ、あれがおまえの母さんだよ」
「ぎ?」
「だから、おまえの母さんだって」
 クロが母親の顔を見るのはこれが初めてだった。親だと理解できないのも無理はない。何度も必死に説得するユーリをくりくりとした瞳で不思議そうに見つめるばかりだった。
 それでもユーリはクロを返さなければならなかった。そう約束したのだから。
 ユーリはクロを抱えたままクロトビチョウの前へと進み出た。クロトビチョウがぎろりとユーリを睨みつける。ユーリの体が思わず竦んでしまったが、それでも逃げ出すわけにはいかなかった。
「おまえの子どもだ。返すよ」
 ユーリはクロをそっと地面へと下ろし、親元へ帰るように指示した。だがクロは動かない。目の前にいる大きな竜が自分の親だと理解できていないのだろう。不安そうに何度もユーリのほうを振り返って見ていた。
「ほら、行けって」
 この三ヶ月間ずっと一緒にいたクロと別れるのはユーリとしても辛い。だが人間のユーリではなく親と一緒に暮らすほうがクロとしては幸せだろう。引き留めるわけにはいかなかった。
 そうだ、親と一緒に暮らすほうが幸せなんだ。
 そう自分を説得するユーリの胸にずきりと痛みが走った。
 ユーリの気持ちを察したのか、クロがようやく歩きだした。おそるおそる、一歩ずつ確かめるように。クロが親竜の目の前まで近づいた、その時だった。
「ガアァ!」
 突然、クロトビチョウが翼を大きく広げ、けたたましい咆哮をあげたのだ。
「ぴぎーっ!?」
 目の前で威嚇され、驚いたクロは逃げるようにしてユーリのもとへと戻ってきた。よっぽど怖かったのだろう。クロの体はぶるぶると震えていた。
「あ……!」
 そうこうしているうちにクロトビチョウは大きな翼を広げて飛び去ってしまったのだ。いくら呼び止めたところで戻ってくるはずもない。どんどんと遠ざかっていく影を見やりながらユーリは呆然とするしかなかった。
 帰すことができなかった。
 クロの母親はクロが自分の子どもであると認識できなかったのだろうか。
『わかる! 親子なんだから!』
 ユーリの脳内にかつて自分が言った言葉が蘇る。自分の与り知らないところで育ったクロを、親竜が子として認識できるわけがないと言ったギルダーの言葉が悔しくて、あの時はついかっとなって言い返した。何の気なしに言った言葉だ。
 その言葉が今となって、心を抉るナイフとなり返ってきた。
「そうだよな。わかるって言ったのに……わかっていなかったのはオレのほうじゃないか」
 自分はわかっていなかった。
 ずっと近くにいたにも関わらず、ギルダーが実の父親であるということを。






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