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 空は青く澄み渡り、穏やかな海面が太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。遠くで鐘の音が鳴り響いている。教会の祝福の鐘だ。あれはいったい誰のためのものなのだろうか。結ばれた二人の男女が人々の祝福を受け、新たな門出を迎える。それはきっと幸せなことなのだろう。
 だが、当人にとっては苦痛でしかなかった。
 人々の、天の祝福さえも裏切り、着の身着のままで花嫁は海へと向かった。



 港にはたくさんの船が並んでいた。漁船、商船、定期船……。彼女はその中から慎重に目的の船を選んだ。乗組員が少なく、乗り込んでもバレないような船。
 要は密航するつもりなのだ。
 行き先はどこでも構わない。ここから遠くへ行けるのならばどこだっていい。
 そうして彼女が選んだのは小柄なスループ船だった。
 船員たちは出払っているのだろうか。人の姿が見当たらない。好都合だった。
 周りに人がいないことを確認し、こっそりと甲板へと上がり込む。
 と。
「おい、何をしているんだ」
「ひゃう!?」
 突如声をかけられ、彼女は思わず変な悲鳴をあげてしまった。乗組員は皆無ではなかった。マストの陰になって見えないところにいたのだ。
 若い男だった。歳は彼女よりは上だろうが、二十代前半といったところだ。この船の乗組員だろう。
 男が口を開こうとするのに先んじ、彼女は捲し立てるように言った。
「お願い! 見なかったことにして!」
「は?」
「あたしはどーしてもこの密航を成功させなければならないの。万が一あたしが見つかったとしても、あなたに見られたことは船長さんには黙っといたげるから。お願い、ね?」
「船長さんって……」
 男は何か言いたそうにしていたが口を噤んだ。
「そうか。何か下が騒がしいなと思ったら」
 男が値踏みをするようにじっと彼女の姿を眺める。青く澄んだ海のような瞳だ。見られているというのに、彼女のほうが逆に男の綺麗な瞳に目を奪われていた。
「花嫁がいなくなったんだってな」
「あ、それ、あたしのことね」
 話題の花嫁はあっけらかんと言い放った。
「逃げきたのか。相手の男がクソだったのか?」
「ううん、きっといい人よ」
 立っているのが疲れたのか、花嫁衣装が汚れることも気にせず彼女は甲板に座り込んだ。
「親が決めた結婚なの。あ、言っとくけど、相手は普通の人よ。歳はあたしより少し上だったわ。カッコよくも、カッコ悪くもない。至ってフツーの人。性格も穏やかで優しい人ね。出会って間もないあたしを好きって言ってくれた。あたしを一生大事にするとも言ってくれたわ」
「ふぅん。いい奴じゃねえか」
 男も同じように座り込んで話を聞いていた。追い出す気が失せたのだろう。だが、密航に手を貸してくれるわけでもなさそうだ。ただ話をしているだけのほうが近かった。
「じゃあなんだ。本命がいるのか?」
「そんなのいないよ。ただ結婚するのがイヤだったの」
「嫌?」
「あたしの家は鍛冶屋なの。子どもの頃から工房の片隅で、お父さんが仕事する姿を見るのが好きだった」
 最初はただの石ころにすぎないものが、何度も打ち鍛えられていくにつれて美しい鋼へと姿を変えていく。それが彼女にとっては魔法のようだった。自分もいつか父のように美しい鋼を作る人間になるのだといつしか夢を見るようになった。自分が女の身であることも顧みずに。
 そして大きくなった彼女は鎚を手に取った。鍛冶の真似事を始めたのだ。それを快く思わなかったのは、他でもない、彼女の父親だった。父は娘が花のように淑やかな女性になることを望んだ。だが、彼女が好んだのは鍛冶という荒々しい仕事だった。娘に鍛冶をやめてほしかった父は彼女が工房に入ることを禁じた。
 だがそれは逆効果だった。禁じられればその禁を破りたくなるのが人のさが。工房への出入りを禁じられてもなお彼女は独学で鍛冶を学び続けた。父親がいない隙を狙って工房に忍び込んだこともある。独学を続けていくうちに刃物だけでなく銃などの武器にも興味を示すようになった。
 娘の男っぽい趣味をやめてもらうため、父親がとった最終手段が結婚だった。
「周りの女の子たちが花とか服とか装飾品とかを好きになっていく中、あたしは武器をいじくるのが大好きだった。男の子みたいだって笑われたこともあった。だけど、そんなの関係ないわ。あたしが好きな物をどうして他人に笑われなきゃいけないの? 恥ずかしいことだって隠さなきゃいけないの? そんなのくそくらえだわ! 結婚したらあたしはあたしの好きなものを手放さなきゃいけなくなるの。だったらあたしは結婚なんてしない!」
 ダン!と甲板を踏み鳴らして熱弁する彼女に男は無感動な拍手を送った。ただ手を鳴らすだけの行為に彼女はむっと眉をしかめた。
「ねぇ、ちゃんと話聞いてる?」
「聞いてる、聞いてるとも。要は結婚したくないんだろ?」
「そーだけど……」
 あれだけ熱く語ったのにそれを一言にまとめられると文句を言いたくもなる。だが、今度は男が先んじて口を開く番だった。
「ま、いいんじゃね? おまえの人生はおまえが好きに決めるべきだ。他人が――例え親であろうとも、おまえの人生に決定を下す権利はない。おまえのやりたいようにやればいい」
 その言葉に、文句は一瞬にして吹き飛んだ。
 嬉しかったのだ。「好きなようにすればいい」なんて言われたのは初めてだった。今まであれをしてはいけないこれをしてはいけないとたくさんのことを禁じられてきた。女らしくしなさいと何度も窘められてきた。
 初めて自由を認められたのだ。
「ねぇ、ナイフとか持ってない?」
「あ? 持ってるが」
 男は懐から小振りのナイフを取り出すと彼女に渡した。ナイフを受け取ると、彼女は何を思ったのか、おもむろにナイフで自分の指を突いたのだ。
「おい……っ!?」
 男が動揺するのもお構いなく、今度は血濡れた指で花嫁衣装の裾をたくし上げる。びりっと豪快に音をたてながら花嫁衣装を膝丈ぐらいまでに破いていく。仕上げに青みがかった長い黒髪を肩でばっさりと切り落とすと、髪と破れた衣装を海へと投げ捨てた。
「これで花嫁は死んだと思ってくれるでしょ?」
 彼女はにこりと笑った。なんとも清々しい笑みだった。
「それじゃあ、この船に乗っていくからよろしくね」
「はぁ!? まだ乗せるなんて一言も言ってねえだろ!」
「やりたいようにやればいいって言ったじゃん。この船に乗るって決めたんだからね。あ、そういえば自己紹介がまだだったね。あたしはハミン。よろしくねー」
 反論は一切受け付けていないらしい。勝手に居座るハミンに、男は「頭のおかしクレイジーな花嫁だ」と吐き捨てるように言った。


 問題はこの状況をどうするかだった。他の船員たちに何と言って説明するか。
 案の定、説明は不可能だった。
 買い出しから戻ってきたシノはハミンの姿を見るなりあんぐりと口を開けた。
「街で花嫁が行方不明になったって大騒ぎになっていたけど、まさか……」
「船長が花嫁をかっ攫ってきた!」
「攫ってねえよ、馬鹿。こいつが勝手に乗り込んできたんだ」
「えっ、船長って……」
 他の船員たちの反応にハミンは目を白黒とさせた。今まで一端の船員だと思って喋っていた男。まだ歳の若い男――他の船員よりも若い男を、誰が船長だと思うだろうか。
「俺が、 、船長のギルダーだ」


 改めて甲板に話し合いの席が設けられた。先ほどのような雑談ではなく、船長と乗船希望者としての話し合いだ。ギルダーとハミンは積荷の木箱を椅子代わりに向き合って座っていた。傍には副船長であるシノも控えている。
 話し合いの場を船室ではなく甲板にしたのは他の船員たちにも聞こえるように配慮してのことだ。相手が女性である以上、閉ざされた空間でおこなうのは憚られた。一応、出航の準備を進めるようにと指示は出してあるのだが、女性という珍客に皆が興味津々で、仕事にほとんど手がついていなかった。
「……で、帰る気はねえんだな」
「これっぽっちも。結婚式を脱走しちゃったから帰ったら二度と外に出られなくなっちゃう」
「まぁ、そうなるだろうね」
 帰ればどんな仕打ちが待ち受けているのやら。良くて折檻、悪くて軟禁。なので帰るという選択肢はない。
 ハミンの変わらぬ意思にギルダーは舌打ちをした。
「ったく、ウチは船便じゃねえんだぞ」
「そういえばこの船って何の船なの? 商船?」
「海賊船」
「えっ」
 ハミンの表情がぴたりと強張る。
「何そのジョーク。笑えないんだけど」
「ちゃんと海賊旗ジョリー・ロジャーもあるぞ。嘘だと思うなら見せてやるよ」
「いえ、ケッコーです……」
「良かったなぁ、ウチが善良な、 、 、海賊船で。でなければ今頃海に放り出されるどころか、どっかに売り飛ばされていたぜ」
(自分で“善良”とか言っちゃうかなぁ……)
 意地の悪い笑みを浮かべるギルダーの後ろでシノは思わず苦笑いを浮かべていた。
「まぁそれはさておき。船賃次第で乗せて行ってやらなくもないが」
「えっ、ホント! あ、でもあたし、この格好のまま出てきちゃったからお金なんて持ってないんだけど」
「金がねえなら別の物で支払えばいい。そこにあるじゃねえか」
 ギルダーの指がすっとハミンを指差す。ハミンははっと息を飲んだ。
「まさか、体で支払えって言うつもり!? 鬼! 変態!!」
「いるかんなもん。一銭にもならん」
「ちょっと、どういう意味よそれ!」
「ぎゃーぎゃーやかましい女だな」
 ハミンの甲高い声にギルダーは思わず顔をしかめた。
「俺が欲しいのはおまえの体じゃなくて、その体につけている装飾品のほうだ。花嫁衣装というだけあって良い物を使っている。高く売れるだろう。衣装のほうはビリビリに破いちまったから服としては売れないが、布としても十分に売れる。その額でバーミア諸島の好きなところへ連れていってやる」
 そこまで言われてハミンははたと気がついた。
「あたし、行きたい場所がない」
「あ? んなもん適当に決めろよ」
「そうじゃない。女のあたしじゃどこに行っても好きなことをやれそうにないから」
 バーミア諸島が属するリーレイア・クルセウス両国とも女性の社会進出率が低い。男は仕事に出て稼ぎ、女は家を守るのが一般的な考え方だ。最近では性別ではなく能力を評価するべきだという考えも増えつつあるので働く女性が皆無というわけでもないが、未だ働く女性の比率は低いままだ。例えハミンに鍛冶の能力があったとしても、女のハミンを雇ってくれるところはないだろう。
 生きたいように生きたくとも、性別の壁がついてまわる。
 外へ出れば自由だと思っていたのに――
「……おまえ、鍛冶ができるんだっけな。いらない金属を釘とかに作り変えたりできるか?」
「え。できるけど」
「気が変わった。やっぱり体で支払え」
「へ……?」
 ギルダーはぽりぽりと頬を掻いた。
「ウチの船大工が釘を買うためだけにわざわざ街まで出るのは面倒だとぼやいていたのを思い出してな。鍛冶師が一人いれば非常に便利なわけだ」
「それってつまり、あたしに仲間に入れってこと?」
「ギルダー……」
「幽霊が一人増えたところで何の問題もないだろ。それにおまえだって、仲間に医療用の小刀を作れる奴がいたら便利だとは思わねえか」
「はいはい。僕は何も言わないでおくから。船長の判断に従いますよ」
 さも名案だと言わんばかりに言い訳がましいギルダーにシノは呆れ顔で返した。
 未だ驚きを隠せないハミンに向かってギルダーは意地の悪い笑みを浮かべた。
「働かない奴を船に置いとく気はねえ。……だが、己の務めさえ果たせばあとは自由だ。さあ、どうする?」
 自由――それこそハミンが望んでいたものだった。
 ハミンの心は決まっていた。






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