※ 14話の空白の三日間です。


「本当に大丈夫?」
 何度この言葉を聞いたことだろうか。数回、いや数十回になるかもしれない。耳にタコができるほど聞き飽きた言葉に、ユーリは何度目になるかわからないため息をついた。
「大丈夫。大丈夫だから」
「本当に?」
「ほんとホント! だからシノは気にせずに行ってきなよ!」
「そこまで言うなら僕は行くけど……」
 行く、と口にはしながらもシノの視線は未だ後ろと向いている。心配性を通り越してもはや過保護だ。さすがのこれには呆れたのか、第三者として事を見守っていたエドワードがユーリに助け舟を出した。
「ウチの主治医も控えているから問題はないだろう。あまり気にし過ぎると逆にユーリが気の毒だ」
 過ぎた気遣いはその人を信用していないとも捉えることができる。そのことに気付かされたシノははっとバツの悪い顔をした。
「ごめん。ユーリのことを信用していないわけじゃないんだよ」
「わかってるよ」
「それじゃあ……ギルダーのこと、任せたよ」
 シノが心配しているのはギルダーの容態だった。事件の夜から丸一日が経った今なお、ギルダーは高熱に浮かされたまま意識が戻らない。体内に入り込んだ毒を追い出すため、体の防御作用が働いているからだろう。今までに何度か目覚めてはいるが、寝言ともとれるような言葉を紡ぐばかりで、すぐに眠りに落ちてしまう。未だ意識は戻っていないに等しかった。
 一日目は医者であるシノが付きっきりで看病していたが、そうもいかなくなった。事件の首謀者であるウェインとの面会時間が取れたのだ。何故今回の事件が起きたのか、それを知るためにもウェインと旧知の仲であるシノはウェインとの面会を望んだ。だが、まさかこんなにも早く面会の許可が下りるとは思ってもいなかったのだ。ウェインと話をしたいが、意識の戻らないギルダーの傍を離れることもできない。
 そこで代わりに看病を申し出たのがユーリだった。ユーリとて父親のことが心配なのだ。シノから看病の仕方を教わった。
 そして、冒頭のやり取りになったというわけだ。
 後ろ髪を引かれる思いで出て行くシノを見送り、ユーリはうーんと首を捻った。
「シノってあんなに過保護だったかなぁ?」
「彼は昔からギルダーに対してはああだったと思うが」
「え、昔から?」
 エドワードの言葉に思わずぎょっとするユーリ。
「初めて会った頃――八年前もドクター・グレイシスは何かとギルダーの世話を焼いていた。八年経った今のほうが過保護さが増したかもしれん」
「はは……」
 ギルダーとシノが八年の長い付き合いになることは知っていたが、まさかその頃からあんな感じだったとは。ユーリは思わず乾いた笑い声をもらした。


× × ×
 意識のない相手の看病というのは意外に厄介だ。高熱で大量に発汗しているので脱水症状が危ぶまれるが、相手は意識がないので自力で水分補給ができない。また、汗は冷えると肺炎の原因にもなりかねない。ただでさえ熱で体力が落ちているというのに、肺炎を起こせば命取りとなるだろう。  ユーリはシノから教わったとおりに適宜汗を拭きとり、氷嚢を変え、濡れたタオルで唇を湿らせたりと甲斐甲斐しく看病をした。大変ではあるが苦痛ではなかった。父の看護をすると自分が望んだのだから、苦痛なわけがない。  汗ばんだ髪を掻き撫でる。ギルダーの髪に触れるのは初めてだ。いつもはバンダナで隠しているから当然といえば当然なのだが。平時であればきっと触らせてはくれなかっただろう。硬くてぴょんぴょんとはねる自分のと比べて柔らかい髪だった。 (さっきより熱は下がっているかな?)  手に感じる体温は昨日と比べてずっとマシだ。ふと、ユーリはギルダーが寝苦しそうに何度も体勢を変えていることに気がついた。時折呻き声もする。意識が浮上しつつあるのかもしれない。自力で水が飲めるならそれにこしたことはない。ユーリはギルダーの体を軽く揺さぶった。 「起きれそう? 水飲める?」  起こしてみるものの、ギルダーの目はとろとろと微睡み、どこかぼんやりとしている。起きてはいるが半分覚醒していないも同然だった。  体を支えながら吸い飲みを使ってゆっくりと水を飲ませる。無意識ながらもちゃんと水を飲んでくれるのは生物としての本能なのだろう。水分補給を終え、再び体を横たえようとした時だった。 「ゆーり……」  乾いた喉がユーリの名を紡ぐ。熱で潤んだ瞳がじっとユーリを見つめていた。  意識が戻ったのだろうか? 「何?」  問い返してみるが返事はない。  代わりに返ってきたのは抱擁だった。  まるで子どもをあやす親のような、あるいは子が親に甘えるかのような動作に、ユーリは困惑せざるをえなかった。 「ギルダー……?」 「…………」  何かを囁くように口が動く。だが言葉は出てこなかった。そのままずるずると力が抜けていく。ギルダーはユーリにもたれかかったまま再び眠りに落ちてしまった。熱で体力を奪われているので意識を保つことができないのだろう。  ギルダーは何を言おうとしたのだろうか。  一抹の不安がユーリの心の中に過る。ユーリの腕の中で眠るギルダーは弱々しく、いつしか消えてしまいそうな存在だった。今までに何度も自分を助けてくれた、強くて頼りがいのある父親。だが、今回のようなことがあればすぐにいなくなってしまうかもしれないのだ。いつまでも守られてばかりではいられない。 (オレも、誰かを守れるぐらい強くならなきゃ)  たった一人の家族なのだから、自分が守らなければ。  己の弱さを噛み締め、ユーリは強くなることを誓った。
× × ×
 シノが帰ってきたのは夕方のことだった。予定よりも遅い戻りだった。 「ギルダーの容態、大分落ち着いたみたいだね」  帰ってくるなりギルダーの様子を確認するシノの表情を盗み見る。出て行った時と比べて少し疲れているように見える。「どうかしたの?」と訊かずにはいられなかった。 「ウェインが獄中で死んだよ」 「え……?」 「毒殺だった。おそらく、黒幕が口封じのために殺したんだろうね」  淡々と。ただ淡々と、シノは事実を語る。 「葬儀は明後日だって。出席するつもりだから、その時はギルダーのことをまたユーリに任せてもいいかな?」 「うん、もちろん。だけど……」  旧友の死に対する悲しみだとか、殺した相手への憤りだとか、感情面をシノは一切語らなかった。事実を告げるシノの横顔は無表情で無感動だ。  時折、シノの考えていることがわからなくなる。仲間同士で歓談している時だって、楽しそうに笑っているのに心が感じられないのだ。まるで笑顔だけ貼りつけたかのような。だから、ウェインに向けて冷たい怒りを顕わにしたシノにはぞっと肝が冷えた。  ウェインが死んだ今、シノは何を思っているのだろうか。ユーリは訊けなかった。訊けるわけがない。学生時代のシノとウェインがどんな仲だったのか、ユーリは知らないのだから。 「そういえばさっき、一瞬だけどギルダーが起きてたよ」 「え、本当?」 「起きたっていうより、寝ぼけてたのほうが近いのかもしれないけど。オレに抱きついたかと思ったらすぐに寝ちゃってさ」 「はは、何それ」  シノは改めてギルダーを診察した。熱は昨日より下がっている。心配事は何も起こらなかったらしい。 「ユーリってさ、ギルダーのことが好きだよね。ああ、もちろん父親としての意味だよ」  肯定はしなかったがユーリは困ったようにシノを見つめ返していた。真っ向から認めるのが照れ臭いのだろう。思春期特有の感情が微笑ましく感じられる。 「僕は父親のことが嫌いだからさ」 「え、どうして?」 「昔からね、何かと考えが会わないんだよ。血は繋がっているはずなのに、どうにも反りが合わない。きっと僕と父は別の人種なんだろうね」  そういえば以前、シノは家出をしてアルタリスにいるのだという話を聞いた覚えがある。クランベイルに実家があるそうだが一度も帰っていないとか。現にクランベイルにいる今もシノは帰省をする素振りを全く見せなかった。 「あることで決定的な仲違いをしてしまってね。その時僕は学生だったんだけど、絶対に家を出てやるって、意地で学校を卒業して出て行ってやったよ。十八のことだったかな」 「えっ、十八!? リーレイアの医学校って何年制?」 「六年制だね。十五の時に入学したから飛び級を繰り返して三年ってとこか」 「シノって本当にすごいお医者さんだったんだな」  以前出会った医者のフランツがシノのことを天才だと言っていたことを思い出す。いくら父親のことがあったとはいえ、医学校を飛び級で卒業などそう簡単にできることではないだろう。 「父親のことを真摯に見られるユーリが羨ましいよ」 「そんな大層なものじゃないよ。オレはただギルダーと一緒に居たいだけだから」  ただ十四年ぶりに現れた父親だからという理由だけで父親扱いしたりはしない。ギルダーは自分のことを息子として思いやってくれている。だから自分もギルダーのことを父親として慕うことができるのだろう。  十四年の壁はそう容易くは越えられない。だが少しずつでも、親子らしくなくとも家族として一緒の時間を過ごすことができればそれで良いと思った。 「なんかシノはお母さんっぽいよね」 「そう?」 「あ、いや。オレのじゃなくて、どっちかっつーとギルダーの」 「ああ、これ?」  ユーリにじっと見られていることに気がついたシノは、ギルダーの頭を撫でていた手をぱっと離した。診察していたはずの手がいつの間にかギルダーの頭を撫でていたらしい。その面倒の見方は医師というよりも母親だ。あっけにとられているユーリに向かってシノは意地悪く笑ってみせた。 「ギルダーって頭を撫でられるのが好きなんだよね、実は」 「えっ、そうなの?」 「こうやって頭を撫でてやるとね、ほら」  シノが頭を撫でると、熱で辛そうにしていたギルダーの表情がいくらか緩む。いつも眉間に皺を寄せて眠るギルダーの安心しきった顔を見るのは初めてかもしれない。思いもよらぬ裏技にユーリは感嘆の声をもらした。 「本人は自覚がないみたいだけどね。もしかしたら幼い頃に頭を撫でられて嬉しかった記憶を、体が無意識に思い出しているのかもしれない。昔の記憶が曖昧なギルダーにとって、これが唯一記憶を繋ぐものなんだろうね」  ユーリはギルダーの頭をそっと撫でた。さっきよりも表情が和らいだような気がする。そういえばギルダー自身もよく人の頭を撫でる。頭を撫でることで相手を安心させられると知ってのことなのだろうか。 『ギルダー。あなたは男の子なんだから強くならなくちゃ』  そう言って頭を撫でてくれるこの手が大好きだった。  温かくて、柔らかくて、どこか安心できるこの手が――  ゆっくりと視界が白色を捉える。それが天井だと理解するまでに大分時間がかかってしまった。何だか良い夢を見ていたような気がするが、はっきりとは思い出せない。ただ胸の奥底で懐かしくも穏やかな感情が広がっていた。  ギルダーは起き上がろうとしたが体に力が入らないことに気がついた。全身のあちらこちらが痛い。それに服が汗でびしょびしょに濡れて気持ちが悪かった。 「おはよう。気がついた?」  声がしたほうに視線だけを向ける。そこに居たのはシノだった。ギルダーは今の心境を伝えようとしたが声がガラガラでろくに喋ることができなかった。「うわ、酷い声」とシノに笑われる。まるで自分の声ではないかのようだった。少し喋っただけで喉が焼けるように痛む。いろいろと訊きたいことはあるのに喋るだけで精一杯なのでまずは喉の痛みをどうにかしなければならなかった。  喉が渇いてろくに喋れないことにシノも察してくれたらしい。 「たくさん汗をかいていたからね。乾燥してても仕方がないよ。水飲もっか」 「おきられん」 「毒と戦って体力を使い果たしたんだろう。起こしてあげるから」  シノに支えてもらいながら起き上がって水を口にする。喉が潤いを取り戻し、ギルダーはようやく人心地をつくことができた。だが、まだ頭がくらくらするし、全身が重くて億劫だ。 「服、びしょ濡れだから変えるね」 「ん」  濡れた衣服が不快だという気持ちと、何をするのも億劫だという気持ちが合わさったからだろうか。シノの言葉に何を考えることもなくギルダーは体をシノへと預けた。無条件で寄りかかってくるギルダーにシノは少し複雑な気持ちになった。 「あのギルダーがここまで無抵抗だなんてなんだか気が引けるなぁ」 「ギルダー、気がついたんだ」  席を外していたユーリが部屋に戻るなりぱっと顔を綻ばせる。だが、シノに無抵抗で脱がされているギルダーの姿を見て表情が強張った。 「……なんだか見ちゃいけないものを見たような気分……」 「何言ってるんだ。自分の父親の裸じゃないか」 「いや、そーじゃなくて……」  父親の裸を見たことが気まずかったのか、いつもは横柄なギルダーのおとなしい姿を見たことが気まずかったのか、シノに脱がされているところを見たことが気まずかったのか、何とも言い難いユーリであった。 「逃げ回った時からの記憶がねえ」  水を飲み、服を着替えているうちに段々と意識がはっきりとしてきたのだろう。ユーリたちはギルダーから話を聞くことにした。だが、あの時は毒が回っていたからか、暗殺者と戦った時あたりからところどころ記憶が曖昧らしい。自分の命を囮にウェインをあぶり出したことなどとんと知らぬという感じだ。 「何回か起きてたんだけど、その時のこととか覚えてない?」 「覚えてねえ」 「それじゃあ、寝ぼけてユーリに抱きついたことも覚えてない?」 「覚えてね……なんだって?」  思いもよらぬ言葉にギルダーは目を白黒とさせた。 「俺が、何したって?」 「だからオレに抱きいたんだって。何か言いかけてたみたいだったけど、あれって何だったの?」 「知らん! つか、何かの間違いだっ!」  無意識だったとはいえ、ユーリに抱きついた事実が恥ずかしかったのだろう。熱は大分下がったというのに、ギルダーの顔は再び真っ赤になっていた。 「別にいいじゃないか。これがカティアとかだったら大問題だろうが、自分の息子なんだから」 「良いわけあるか! よりによってユーリに……!」  叫んだことで頭がくらっとしたのか、ギルダーが頭を抱えてうずくまる。 「はいはい。病人は叫ばず喚かず、おとなしくしときな」  ぎろりとシノを睨みつけるがそれ以上反論する元気はないようだ。ギルダーは舌打ちをするとごろりと不貞寝することにした。 「まだ病み上がりなんだから今日はゆっくりしときなよ」 「明日殿下が来るらしい。事件の顛末は明日にでも聞かせてくれ」 「ああ、そうする」 「その前に、ひとつだけ教えてほしいことがあるんだ」  シノがギルダーに尋ねる。 「今回の事件で犯人はおまえの短剣を持っていた。少し大きめの、刃が湾曲したものだ。何故犯人が持っていたのか。何か思い当たることはないか?」  ひとつだけどうしても気になっていたこと。それはギルダーの短剣の入手ルートだ。おそらく短剣は黒幕が用意したもの。敵がそれをどうやって入手したのかによって今回の事件の首謀者が見えてくるはずだ。だから身内しかいないこの場で訊いた。 「と言われても、短剣なんて消耗品みてえなもんだからなぁ」 「いや、あれは明らかに投擲用の物ではなかった。そう簡単になくすような物ではないと思うんだけど」 「実物があればすぐに思い出せるんだろうがな」 「実物は証拠品として公安部が持っていってしまったからなぁ」  考えこむ二人を見て、ユーリもそういえばと考えこむ。どうして自分はあの短剣を見てギルダーの物だとわかったのだろうか。付き合いの長いシノは見てなんとなくわかったのかもしれないが、まだ半年程度の自分はどこかでギルダーがその短剣を使う姿を見たのだろう。  いったいどこで――あの短剣を振り上げたギルダーの姿を思い浮かべる。  あっ!とユーリは大声をあげた。 「いきなりどうしたんだよ」 「そうだ。オレ、ギルダーがあの短剣を使っているところを見た覚えがある。オレがエンリケに捕まった時、ギルダーはあの短剣を使っていた」 「エンリケって、あの奴隷商人の?」 「……それだ!」  ギルダーががばりと跳ね起きる。 「そうだ、思い出した。あの時、俺は短剣を一本なくしている。エンリケに捕えられた時、奴に斬りかかろうとして落とした短剣がどこに行ったかわからないんだ」  ユーリを助けようとしてエンリケが斬りかかる。だが、ユーリを盾にされ、躊躇したその隙に電撃をくらわされた。その時に短剣を落としたのだ。その後は捕まってしまったので、その短剣の行方はわからない。 「フェリアス号でなくした短剣が何故ここに……?」 「それはわからない。フェリアス号が何か絡んでいるのか、それとも売られた短剣が流れ着いただけなのか」 「そういえば、エンリケたちはどうなったの?」  あの時、銃弾の傷で意識のなかったユーリはエンリケたちがどうなったのかを知らない。問いかけるユーリにシノは説明してみせた。 「あの時はユーリを早く病院に連れて行かなきゃいけない状態だったからね。ユーリたちと攫われた子どもたちを船に乗せて、フェリアス号は放置せざるをえなかった。と言っても船は焼けていたし、船員たちは戦意喪失の壊滅状態だったし、逃げるのが精一杯だったんじゃないかな。誰かさんのおかげでね」  シノはちらりと横目で見るが、“誰かさん”は知らんぷりだ。 (しかし……となると、いったい誰が何のために、わざわざ短剣を?)  今回の事件は明らかにギルダーを嵌めるためのものだった。わざわざ殺人犯に仕立てあげるなど、やり方が遠回りすぎる。だが、そこにきっと何か意味があるのだろう。  まだ見えぬ敵――そう、これは『敵』だ。  敵の存在があるとわかった以上、警戒せざるをえなかった。

[2015年 5月 20日] 初稿

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