ぱしんと鞭がしなる音に喉が妙な音をたてた。肌が切れ、血が滲み出る。激痛。だがもはや悲鳴はあがらなかった。悲鳴をあげすぎて喉が乾ききってしまったからだ。
『ほぉら。さっさと鳴かんか』
 ぴしゃり!
 破れた肌の上から叩かれ、声にならない悲鳴をあげた。喉まで切れてしまいそうだ。
 やっていることは拷問と変わらなかった。極限まで痛めつけられ、死ぬことも許されない。だが拷問と異なるのは、何も白状することができないことだ。どんなに懇願したところで終わりはない。許すも何も、はじめから何も悪いことをしたわけではないのだから。ただ鬱憤を晴らすためだけにいたぶられているのだ。
 主人の好きなように弄ばれ、逆らうことはできない。それが奴隷だ。
『つまらん。アレを持ってこい』
 “アレ”と言われて無意識に体がびくりと震えた。何をされるのか想像がついた。
 召使いが持ってきたのは、予想どおりのものだった。どろりと粘り気のある赤い液体。塩や唐辛子などを混ぜ合わせたものだ。
 今からあれを傷口に塗るつもりなのだろう。痛みにのたうち回る自分を見て楽しむために。
 以前あれを塗られた時は傷口を火箸で抉られるかのような激痛に転がり回り、知らないうちに気を失っていた。あの時の痛みを脳が無意識に思い出し、ガチガチと奥歯が鳴った。
『ゃだ……ッ』
 ひゅうひゅうと風の音しかしなかったはずの喉が言葉を紡ぐ。喉が切れてでも、血を吐いてでも、叫ばずはいられなかった。
 無駄な懇願だとわかっていても。
『いやだああぁぁあ!!』


「あぁぁァあア!!」
 叫び声をあげ、布団をはねのけて起き上がる。いつもの見慣れた自室だ。窓からは昇り始めたばかりの太陽の光が差し込んでいた。光の差し込まないあの地獄の場所ではない。鞭を振るう憎き奴もいない。
 だが動悸はおさまらなかった。何度も息を整え、大きく深呼吸する。あの嫌な光景が頭にこびりついて離れない。
 ギルダーはバンダナを外すと、汗でぐっしょりと濡れた髪をがしがしと掻いた。
 ――自分の悲鳴で目が覚めるだなんて、最悪だ。
 これで何度目だろうか。ここ数日で何度この手の悪夢を見たことだろうか。悪夢にうなされ、その度に悲鳴をあげて飛び起きる。そんな日が何日も続いていた。
 水を飲んでからベッドに腰をかけ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。もう一度眠る気にはなれなかった。眠気はあるのに、眠ると再びあの悪夢を見るような気がして怖いのだ。そうしてぎりぎりまで起き続け、眠気に負けて夢に落ち、また悪夢を見る。
 何度これを繰り返したことだろうか。
 ギルダーはここ数日、安らかな眠りを得ることができなかった。





 まだ夜が明けたばかりの早朝に、普段は現れないはずの人物が現れたものだからユーリは驚かずにはいられなかった。同じく食堂にいたシノも目を丸くしていた。
 ギルダーが来たのだ。いつもなら自力で起きられないというのに。
 だがユーリを更に驚かせたのはギルダーの顔色が尋常ではないことだった。目の下には深い隅ができており、目が真っ赤に充血している。目に見えて憔悴しきっていた。あの時と同じだ。ユーリが生死をさまよっていたあの時と。異なるのは無精髭を生やしていないことぐらいだろう。
 ギルダーはふらふらと席までたどり着くとユーリを呼び寄せた。声が嗄れている。あまりの酷さにユーリは何を聞いたらいいのかわからず、とにかく言われたとおりギルダーのもとまで歩み寄った。
「ユーリ、手ぇ貸せ」
「えっ、手?」
 そう言われてユーリは反射的に手を差し出した。一瞬『手伝え』の意味かと思ったが、どうやら物理的な意味で間違っていなかったらしい。ギルダーはユーリの手を握ると、近くにあった椅子を引き寄せ並べてその上にごろりと寝転がった。狭い椅子の上を、まるで猫のように丸まっている。
 ギルダーが何をしたいのかさっぱりわからずユーリは問おうとしたが、既にギルダーはすーすーと寝息を立てていた。
「なんだよもう」
「ユーリ、ユーリ。しばらくそのままでいてあげてくれないかな」
 一連の様子を見ていたシノがこっそりと囁いた。
「この様子だと、また眠れなくなってるんだと思う」
「また?」
「こういうことが度々あるんだ。昔からの癖みたいなもんだよ。昔ほどは酷くないけどね。ギルダーは時折ね、悪夢を見てはうなされ、起きては眠れなくなるんだ。一種の不眠症みたいなものだよ」
「悪夢って……ひょっとして過去のことを?」
「そっか。ユーリは話を聞いたんだね」
 シノは椅子を寄せてユーリだけに聞こえるように小声で話した。
「悪夢の内容はおそらく奴隷時代だった過去だ。ギルダーにとって奴隷だった過去は忘れたくても忘れられない過去なんだよ。どれだけ酷い目にあったかはわからない。でも夢にまで出てくるということはよほど酷い扱いを受けていたんだろうね。それが今でもトラウマとなってギルダーを苦しめている。こいつはね、未だに夜中に悲鳴をあげて目を覚ますんだ」
 ユーリは以前ドランクの船でギルダーが『叫んだら起こしてくれ』と言っていたことを思い出した。本人がそう言っていたということは以前から自覚があるのだろう。
「しばらく寝かせてやってくれ。この様子だともう何日も眠れてないんだと思う」
「でも、何で手なんかを?」
「ユーリがちょうど良い精神安定剤になるからじゃないかな」
「え?」
「ユーリが近くにいるとよく眠れるんだって。そのままじゃあしんどいだろ。何か敷物でも持ってくるよ」
 シノが去ってから、ユーリはようやくシノが言ったことの意味を理解した。なんだか気恥ずかしくなり、空いているほうの手で顔を押さえた。ギルダーが眠っていて本当に良かったと思う。

 ユーリの手が文字通り塞がっているので、朝食はカティアとサシャが代理で作ってくれた。食堂に来る船員たちに静かにするように声をかけ、ギルダーと手を繋いでいることをからかわれ、そうしていつしか人の去った食堂には静けさが戻っていた。未だにギルダーは眠ったままだ。
(ちょっとこの体勢つらいかも)
 ユーリはギルダーを起こさないよう、もぞもぞと何度も体勢を整えた。シノがクッションを持ってきてくれたが、それでもずっと同じ体勢でいるのは体の節々が痛んだ。
 ――ま、よく眠れているならいっか。
 今のところうなされている様子もない。このまま十分な睡眠が取れるのならば腰の痛みも無駄にはならないというものだ。このまま何事もないことを祈った。
 だが。
 突如ギルダーが手を強く握ったのでユーリは痛みに顔をしかめた。
「ギルダー……?」
「……めろッ」
 ギルダーの眉間に深い皺が寄っている。うなされているのは明白だった。
 ギルダーはユーリの手を強く握り締めたまま叫んだ。
「やめろ! はなせっ、はなせぇぇえ!!」
「ギルダー! おい、しっかりしろ!」
 ギルダーの尋常ではない様子に、ユーリはギルダーの頬を強く叩いた。叩かれたことでギルダーはようやく目を覚ましたが、それでも目の焦点があっていなかった。荒い呼吸を繰り返しながらぼんやりとユーリを見つめている。
 突然、ギルダーの両目から大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
 これにはさすがのユーリもぎょっとせずにはいられなかった。
「オレ、お茶でも淹れてくるよ」
 ギルダーとしては息子に涙を見られるのは嫌だろう。ギルダーの涙を極力見ないようにして、ユーリは厨房へと向かった。


「はい。飲むと落ち着くよ」
「…………」
 ユーリが差し出したカップをギルダーは無言で受け取った。涙はすっかり止まっていたが、ギルダーは黙ったままだった。いつもなら皮肉のひとつやふたつ言ってみせるというのに、よほど余裕がない証拠だった。
 カップに口をつけたギルダーがぽつりと呟いた。
「変わった味がするな」
「うん、いろんなスパイスを配合してるんだ。ユーリブレンド」
「なんだそりゃ」
 ようやく鼻を鳴らして笑った。だが目の下の隅が痛々しく見えた。
 ギルダーは空になったカップをテーブルに置いた。
「……一週間ほど前からだ」
「え?」
「悪夢を見るようになったのは」
「ってことは、ここ一週間まともに寝てなかったのか?」
 ギルダーはこくりと頷いた。一週間前といえばギルダーがユーリの父親であると明かした時だ。
「何度も何度も嫌な夢を見た。その度に起きて、眠れなくなって」
「よっぽど怖い夢だったのか?」
「怖い……というよりは、胸くそ悪ぃ夢だ。気がおかしくなりそうだよ」
 夢に見るのは決まってあの頃いた光の差し込まない石壁の部屋だ。蝋燭の光だけが頼りの薄暗い部屋。夢に感覚なんてないはずなのに、石の床の冷たい感触が勝手に思い出される。そこにやって来るのは主人であるトマと商売仲間たちだ。彼らは“遊び”と称して思い思いにギルダーをいたぶった。
 ここ数日で見た夢は全てその“遊び”だった。
「発狂寸前まで追い詰められ、現実に引き戻され、また追い詰められる。ずっとそれの繰り返しだ。五年間、ずっと。いっそ狂えてしまったら楽だったのに、奴らがそれを許さなかった。死ぬことも狂うことも許されねえ。生きていることまでもを管理されていた」
「それをずっと夢で、だからうなされて……」
 ギルダーがどんな仕打ちを受けてきたのか、ユーリにはあくまでも想像することしかできない。だけどギルダーの表情を見ていればわかる。それがどれだけ苦しくて辛かったことなのか。
「でも、違うんだ。さっきの夢だけは」
 ギルダーは首を横に振った。
「いつも同じだったのに。いつだって、悪夢はあの頃のはずなのに。さっきの夢は……奴隷としていたぶられているのは、俺じゃなくておまえだった」
「え……?」
 ふとユーリが見上げるとギルダーの目には再び涙が滲んでいた。ユーリはぎょっとして目を逸らそうとしたが、ギルダーは隠しもせず手の甲で涙を拭い、何度も鼻を啜っていた。その姿にユーリは思い当たらないでもなかった。自分の姿とそっくりなのだ。ひょとして自分の泣き虫な性格はこの人から移ったのではないだろうか。つくづく遺伝とは恐ろしいものである。
 ギルダーは声を震わせながら言った。
「おまえには俺と同じ目には遭ってほしくないんだ。おまえが俺と同じ目に合うんじゃねえかと思うと、怖くて、怖くて……っ!」
(あ……)
 ユーリの脳内にフェリアス号での出来事がよぎった。他の子たちも助けるんだと言って聞かないユーリを必死に止めようとしていたギルダー。おまえを同じ目に遭わせたくないと叫んでいた。あの時は仲間としてユーリを守ろうとしていたのだと思った。
 だけど、本当は息子だった。
 あの時のギルダーは内心恐れていたに違いない。せっかく取り戻した息子が自分と同じ目に逢うかもしれない。それも自分のせいで。
 結果的に助かったとはいえ、ギルダーは未だにそのことを引きずっているのだ。だから一週間なのだと。
「頼む、ユーリ行かないでくれ……おれは、おまえが……っ」
 声を震わせながらギルダーは何度も嘆願する。まるでユーリがどこかに行ってしまうと言わんばかりに。
 ずっと大きく感じられていた存在が今のユーリには小さく見えた。だがそれに対して失望はしなかった。むしろ今のほうが近くにいられると感じた。
「大丈夫。オレはここにいるよ」
 ぽんぽんと子どもをあやすように、ユーリはギルダーを抱き締め背中を撫でた。自分のほうが子どもだというのに、今は立場が逆転していて何だか変な感じがした。
 何度も撫でているうちにギルダーが静かになっていることに気づき、ユーリは恐る恐る顔を覗きこんだ。
「ギルダー?」
 気がつけばギルダーはユーリの腕の中ですーすーと寝息をたてていた。そういえば不眠症だったんだなと今更ながら気づく。目元には涙の粒がまだ残っていた。
(まさかあんなに取り乱すとは思わなかったな……)
 眠るギルダーを机に預け、ユーリは机に置かれたカップを回収した。カップは空になっている。全部飲みきった証拠だ。取り乱すギルダーの姿を思い浮かべ、ユーリは後悔した。
 あんなこと、しなければ良かったと――
「いけない子だね。実の父親相手に一服盛るだなんて」
 突如聞こえてきた自分をたしなめる声にユーリはびくりと肩を震わせた。いつから居たのだろうか。食堂入り口に佇むシノの姿にユーリは驚きを隠せずにはいられなかった。
「何の話? オレは、何も」
「お茶にナツメグを使っただろ。それも大量に。ナツメグは過度に摂取すると幻覚症状を引き起こす。料理人であるユーリが知らないはずはないよね」
 全部見抜かれていた。今さら隠しても無意味だと知り、ユーリは観念して全てを白状した。
「ナツメグで気分を高揚させることができるって話を聞いたことがあるからさ、少しでも気が楽になればいいと思ったんだ。でも逆効果だった。今は後悔してるよ。まさかあの時のことを持ってこられるだなんて」
 あの時ギルダーにはフェリアス号で脱出しないと言ったユーリが見えていたのではないだろうか。だとしたら気が気ではなかっただろう。あの時逃げるのに失敗すればユーリがどうなるのか、ギルダー自身が身をもって知っていたのだから。今回の不眠は他でもない自分が原因だったのではないだろうかと、ユーリは現実を突きつけられたような気がした。
 その後はシノに手伝ってもらいながら眠るギルダーを部屋へと移した。
「鎮静剤を打っといたからしばらくは大丈夫だろう。ずっと付きっきりで疲れたろ。代わるよ」
「いや、いいよ。むしろ見ておきたいんだ」
「そう。それじゃあ任せたよ。何かあったらいつでも呼んでね」
「……オレ、ギルダーの重荷になっているのかな」
 ユーリがぽつりと呟く。ユーリの表情は深く沈みきっていた。普段は弱音を吐かないギルダーがあそこまであそこまで弱りきっているのを見せられては、自分が無関係だとは言い切れなかった。
 落ち込むユーリにシノが諭すように言った。
「重い荷物を背負うのが苦ならば捨てればいいだけだ。だけど大切な荷物は簡単には捨てられない。つまりはそういうことだよ」
 ぽんぽんとユーリの頭を軽く撫でると、シノは部屋から出ていった。ユーリを励ましてくれた。だけどシノは決して否定はしなかった。
 ユーリはぎゅっと唇を噛み締めた。
「……大切なのはオレも同じなんだよ」






[2014年 7月 31日] 初稿

inserted by FC2 system