「セイルー!」
 船上の昼下がり。海鳥の鳴く声に混じって低く地の底まで響くような声が聞こえる。この声を聞くと船乗りたちは操帆作業の合図かと間違えそうになるが、これが仕事を促す声でないことをアルタリスの船員たちはみんな知っていた。
 この声にいち早く反応したのはユーリだった。
「ディック」
 ユーリの声にディックが振り向く。ディックはユーリよりも二回りも大きいので、どうしてもユーリは見上げる形になってしまう。いつもなら対格差に圧迫感を感じるのだが、今のディックはしゅんと背を丸めていてどこか頼りない。
 よほどセイルを心配しているのだろう。
「セイルを探しているのか?」
「そうなんだ。見かけなかったか?」
「セイルなら厨房で寝てるよ」
「厨房に?」
 ユーリに案内され、ディックは厨房へと入る。
 そこにセイルがいた。ユーリが言った通り、セイルは気持ちよさそうに眠っている。
「よく昼時になったらここにご飯を貰いにくるんだ」
「人にご飯をおねだりしといて、他の奴からもちゃっかりと貰っていたのか。憎い奴め」
 ディックはセイルの体をわしゃわしゃと撫でた。ディックは体が大きく、いかつい顔つきをした大男なのだが、今ではその顔も完全に緩みきっている。怖さは皆無だった。
 ディックが顔を綻ばせるのも無理はない。何せセイルは白猫なのだから。
 セイルはその名の通り、風を受けてはためくセイルを彷彿とさせる白い毛並の雄猫だ。タールまみれの船内でもその毛並は汚れを知らない、実に美しいものだった。そんなセイルをユーリは自ら進んで餌を与えて面倒を見ているし、ディックのように溺愛している者もいる。
 だが、セイルはただの愛猫ではなかった。


× × ×
 ユーリがセイルと出会ったのは二度目の乗船の時だった。  シノに船内の設備を教えてもらっていたユーリは船倉でセイルの姿を見かけた。わずか一瞬のことだった。セイルはユーリの姿を見るなりさっと逃げたのだ。逃げた、というよりは新顔のユーリに興味がなかったのだろう。ユーリの顔を一瞥してすぐに去ってしまったのだった。 「シノ。いま、猫がいたよ」 「ああ、セイルだね」 「セイルって名前? 船で猫を飼ってるの?」 「そうだよ。セイルはアルタリス号の守護者なんだ」 「守護者?」 「猫は積荷をネズミから守ってくれる、優秀な番人なんだよ」  海賊にとって一番恐ろしいのは海軍でも他の海賊でもない。ネズミだ。ネズミは積荷を食い荒らすだけではなく、疫病をもたらす。船乗りにとってネズミは飢えと病を運びこむ疫病神なのだ。船にはネズミが侵入してこないようにラット・ガード――いわゆる『ねずみ返し』――もついているのだが、それだけではネズミの侵入を完全に防ぐことができなかった。  そこで船乗りたちは船に猫を連れ込んだ。猫はネズミにとっての天敵。猫は船内のネズミを狩ってくれるので、船乗りは好んで猫を飼った。  船乗りと猫は切っても切れない関係なのだ。
× × ×
 セイルがネズミを狩っているおかげで食料は食い荒らされることがない。アルタリスの料理人であるユーリにとっては感謝してもしきれない存在だ。ちゃんと仕事をこなすセイルを労うため、ユーリは時折厨房に顔を見せるセイルに餌を与えていた。セイルも厨房に来れば餌が貰えると理解しているのだろう。しっかりと貰える物は貰っている。 「ディックって猫が好きなんだな。ちょっと意外」  ユーリは何気なくぽつりと呟いた。大男であるディックが猫を可愛がる姿ははっきり言って異様だった。ユーリですら少し引いているレベルだ。 「猫が好き、というかセイルだから気に入っているんだ。セイルはよく働くし、何よりも船長に似ている」 「ギルダーに?」  ユーリはセイルをじっと見つめてみた。脳内に浮かぶギルダーの顔と比較してみる。  ユーリがじっと見ていることに落ち着かないのだろう。セイルは鋭い目でユーリを睨み返していた。  何見てるんだ、と言わんばかりに。 「似てる!」  主に目つきが。  喧嘩腰な吊り上った目はギルダーとよく似ていた。 「だろ? 毛並が綺麗なところなんかが特に」 「あれ、そっち?」 「そっちってなんだ、そっちって」  どうやらディックの見解は違うらしい。ディックとしてはセイルを美人――もとい、美猫とでも言いたいのだろう。  ディックは大柄でいかつい顔つきをしているが、その反面、可愛いものや綺麗なものが好きだ。特に、美人には滅法に弱い。ディックが美形のギルダーをまるで神であるかのように崇めているのは周知の事実だった。  当の本人は気づいていないみたいだが。
× × ×
「セイルが俺に似てるって?」 「うん。ディックが言ってた。オレもそう思うよ」  ディックとの話を思い出したユーリは、ギルダーにそのことを話してみた。ユーリの話にギルダーはうーんと唸るばかりだった。何かを考えこんでいる。  誰かに似ていると言われて喜んだり怒ったり、あるいは本当に似ているかと訝しむのならばわかるが、困り顔で頭を捻っているのはどうにも不思議な光景だった。  シノが横から口を挟む。 「実を言うとね、ギルダーはセイルの姿を一度も見たことがないんだよ」 「あっ、こら!」 「は? そんな馬鹿な」  ユーリが驚くのも無理はない。大型のガレオン船ならともかく、アルタリス号は小型のスループ船だ。全長は18ヤード。階層も二層と船尾楼を加えただけなので実に狭い。隅々を回るのにそう時間はかからない。意識しなくても一日一度は全員と遭遇できるというのに、同じ船内にいながら全く会ったことがないというのは有り得ない話だった。 「まぁ、相手は猫だからどこかの隙間にもぐりこんでいるかもしれないけどさ。それでも会ったことがないなんておかしいよ」 「知るか。何でかわかんねえけど、あっちが俺を避けてるんだよ」 「動物の本能なんじゃないの? 出会っちゃいけないって、察知してるんだよきっと」 「あーあ」 「どういう意味だ、おい。テメェも納得してんじゃねえよ」  ギルダーは柳眉を吊り上げて言った。 「姿は見たことねえが、存在はちゃんと感じているんだぞ」  そう言ってギルダーが案内したのは自分の部屋、つまり船長室の前だった。船長室の前まで来たギルダーはぴたりと足を止めて「やっぱり、またか」と呟いた。何のことかと思い覗きこんだユーリとシノはぎょっと目を開いた。  船長室の前にネズミの死骸が転がっていたからだ。  ギルダーは慣れた手つきでネズミの死骸を海へと放り込んだ。どうやらこの状況に遭遇するのは初めてではないらしい。 「これ、ひょっとしてセイルが?」 「だろうな。姿は見せねえくせして、毎度毎度俺の部屋の前にこうやってネズミの死骸を置いていくんだ。嫌がらせもいいところ……」 「すごいじゃん!」 「……は?」  突如ユーリが興奮気味に声をあげたものだから、ギルダーは呆気にとられていた。 「これって仕事をちゃんとやってるって証拠だろ? セイルは船長であるギルダーに報告しに来たんだよ」 「なるほどね。セイルは船長への報告義務を忘れていない。船員として立派に職務を果たしているってわけだ。褒めてあげるべきだよ」  てっきり自分に対する嫌がらせだと思っていたギルダーは二人の見解を聞いて驚いていた。まさかこれが自分に対しての報告だなんて思ってもいなかった。すっかり毒気を抜かれてしまったギルダーはげんなりと言った。 「んなこと言われたって。俺の目の前に姿を現さないんじゃ褒めようがないじゃねえか」 「船員が仕事をこなしたのならば褒賞を与える。それが船長の役目だろ?」
× × ×
「ったく。何でこんなことをしなくちゃいけねえんだか」  ギルダーは船長室の前に木皿を置き、中に乾燥した小魚を入れていた。小魚はユーリから貰ったものだ。船長がしゃがみんこんで猫の餌を用意している姿は傍から見れば滑稽に違いない。既に先ほど通りがかったクレインに笑われている。一発蹴りを入れておいた。 「おい、セイル。飯は入れといたからな。後は勝手に取りにこい」  ギルダーは誰もいない甲板に向かって言った。セイルがこの甲板のどこかに潜んでいるのか、それとも船内の見回りをしているのか、ギルダーにはわからない。これが自分への褒賞だと猫が理解してくれるだろうか。それすらもわからなかった。 「おまえが俺を嫌っているのはわかってるんだけどよ」  シノが言っていたことはあながち間違いではないと思った。  自分は昔から動物に嫌われる体質だった。野生に近い動物たちは本能で感じ取っているのだろう。自分から放たれている殺気を。八年も経ってもう大分丸くなったというのに、それでもなお獣たちは敏感に感じ取って自分を避けているというわけか。  ギルダーは自嘲気味に笑った。 「おまえだってアルタリスの船員なんだ。ちょっとぐらい顔見せてくれたっていいじゃねえか」  にゃお、とどこかで声がしたような気がした。  翌朝。 「増えてる……!?」  ネズミの死骸は二体に増えていた。  その代わり、木皿の中身はしっかりとなくなっていた。

[2014年 3月 23日] 初稿

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